エッセイ 154:週刊文春発禁問題について


先週、田中真紀子衆議院議員の娘さんのプライバシー侵害をめぐって、週刊文春の発売が突然禁止された。

これに対して文芸春秋社は、一人の裁判官の判断では、納得出来ないと発売禁止の取り消しを求めて再審を要求した。その結果、大変異例ではあるが、東京地裁は急遽3人の裁判官によって再度審議を行なったが、発売禁止措置は正しい判断としてその命令を追認した。
文芸春秋社は、それを受けて直ちに東京高裁に控訴した。
控訴の理由は、言論と報道の自由を侵すもので見過ごすことは出来ないとの主張である。

天下の文芸春秋社ではないか。よく考えて貰いたい。報道の内容が、有名議員とはいえ、その人の長女であり、公人とは全く関係ない。然も個人のプラバシーに関わるものである。
個人の情報を勝手に弄んで公表するような権利は、そもそも報道機関にあるのであろうか。
その上、個人の離婚云々の報道など、ワイドショーではあるまいし、下司の勘ぐりを地で行くような品になさは、一流雑誌社の行なうべきことであろうか。
これは、言論や報道の自由を主張するような案件では、断じてあり得ない。遥かに次元の低い下世話の話である。
寧ろこのような他人様の傷口を無神経にえぐるような報道は、一流社、一流記者たるもの、決して行なうべきものではないことを心すべきではないか。
一般の読者にとっても、この種の記事は、知る権利でも何でもなく、そのような報道が無くても日常生活に何等関係に無いことである。心ある人は、このようなことを知っても、ソッとしておくことが、人の情というものではないか。

文豪菊池寛が創設した文芸春秋社は、長い伝統の中で然るべき見識と気品を以って、時代時代の世間の変化に対応してきたではないか。その結果、今日の名声と地位を築いて来たのである。
今回のような報道には、場末の三流芸者の噂話のような、品格の無さが横溢している。菊池寛を始め、歴代の編集者は今回の発売禁止の命令を知れば、恐らく大いに慨嘆するに違いない。嘗ての、チャタレー裁判のような、文学表現の本質や言論の自由に関しての法廷闘争とは、全く次元が違う裁判なのである。

元来、私はワイドショーにて取上げる個人のプライバシーに関わる下世話のニュースなどは、常々大変苦々しく思い、テレビからの締め出しを願うものの一人である。その為、ある種の意志を持って週刊誌を読まない事を続けてきた。外国の航空会社が締め出すような下品な雑誌が街に横行するのは、国家の恥ともいえよう。
それでも、性懲りも無く愚にもつかぬ報道や裸写真が横行するのを見るのは、誠に情ない限りである。それでも、それが公の場で活躍する所謂有名人の裏の報道や姿であれば、まだしも許容限界のギリギリの線かもしれない。

然るに今回は、一人の市井人に関する取るに足りない報道ではないか。

この際、文芸春秋社は、直ちに控訴を取り下げ、先ず己の恥を知るべきである。恥を知った上で、その後の対処の仕方を自己の責任に於いて行なうべきではないか。
それが、50年以上の長い間文芸春秋の愛読者であり続けた私の感想である。

(平成16年3月25日)