趣味悠々 946:外国での思い出 1


コロナ騒動で外出を控えて自宅にいる時間が増えました。その間に、自分の部屋に仕舞い込んだりしていた書籍や資料などを持ち出して整理しました。不要なものを廃却してスッキリしました。

その整理の間に、資料を見ながら、己の過去の生き様が頭に浮かんできました。
私自身が、もう4コーナーを回ってホームストレッチに入っていますので、ゴールする前の今、生き様を思い出しながら、僭越ですがその幾つかを披露することに致します。

私の現役時代では外国での仕事が多く、1970年代から、アチコチに出張しました。
その中から、印象が強かった国、街、地域等に就いて述べてみたいと存じます。

最初の外国出張が、アルゼンチンのプラント建設の国際入札案件でした。この建設案件では、現地工事を伴うので、現地工事業者の調査と接触が仕事でした。
その2,3年前から何人かの有志とスペイン語を自習していたので、スペイン語圏の国へのこの出張は嬉しかったですね。
当時、私は勤務は東京で、神奈川の大船に住んでいました。
このプラント建設の客側のコンサルタントはアメリカの会社でしたので、帰路にはアメリカにも立ち寄るとて居でした。
アルゼンチンへの往路は羽田からアメリカ経由でしたので、先ず着いたのはニューヨークでした。時差の関係で、羽田を午後3時に出発すると同じ日の同じ午後3時にNYに着くのです。着いたら空港のホテルで仮眠をして、午後8時頃に夜行の便、確か、ブラニフ・インターナショナルの便でブエノスアイレスへ向かい、翌朝8時ごろに無事に着きました。長旅でした。
この空港はバラックに近いお粗末なビルでしたが、その後改築されて、そこそこ立派になりました。

ブエノス・アイレスとは、英語で言えばGood Air との意味なので、空気は綺麗でした。地球上でブエノスアイレスの正反対が、日本の浜松沖との事ですから、まさに地球の真裏です。空港に出迎えてくれた商社の人に連れられまして、市の中心にある中クラスのホテルにチェックイン。
ここにはその後何度も長期滞在をしたので、終いには顔になりました、が、チェックインの際に大きな体のフロントの現地人が、私の持つカメラを見て、売ってくれ!、と頼まれたのを覚えています。カメラを使った後、帰国時なら売っても良いと言いましたが、売らずに帰ったように思います。

ブエノスの街は京都市のように、碁盤の目のように東西南北に真っすぐな道があって判りやすいのでした。早速入手した地図を見ながら、フロントのおっさんに幾つか場所を訪ねたのですが、彼は地図をひっくり返して見たりしても、何も答えられないのには、驚きました。
自力で近くの街を歩きだして、異国情緒豊かな街並みに出会い、直ぐに気に入りました。暫く歩いて気が付いたのは、太陽が見えている方が北、つまり南北が北半球とは正反対ということでした。

ブエノスアイレスはラ・プラタ河という大河を挟んでウルグァイと接しています。川岸に立っても、対岸が見えないくらい大きな濁った河で、河水は銀色に濁っています。
ラ・プラタというのは銀という意味です。

ブエノスアイレスには、その年と、翌年に掛けて、合計5回も出張し、トータル8か月近くも滞在しましたので、色々な貴重なことを経験させて貰いました。
次回以降、記してみます、


(令和2年6月11日)