趣味悠々 952:外国の思い出 3


もう、遠い昔のことであり、これから述べるブラジル国も、今では可なり変わっているかも知れません。
1970年代当時、サラリーマンであった私は、中南米へのプラント輸出の仕事を担当しており、何回もブラジルには出掛けました。
或る時、ブラジル出張でリオに滞在中に用事が出来て伊藤忠商事のリオ店に行って、初めて逢った係長と話を始めたところ、「小津さんは、ブラジルに来られたのは何回目ですか?」と聞かれて、私は、「13回目までは勘定してたのですが、もう判らなくなりました、多分15か16回目でしょう」と答えたら、「道理で!!不慣れな出張者に感じがしませんね。こちらの駐在員のようです」と言われたことが記憶に残っております。

ブラジルはバカでかい国ですから、訪問した地域は幾つかの大きな都市か、その近くだけで、国の本の一部だけです。
巨大なアマゾン川は、何回も飛行機で上空から眺めましたが、赤い河(リオ・ティント)と黒い河(リオ・ネグロ)が合流したり、大西洋に流れ込んでも100キロ先まで川の水の色が判別できるほどの強大な勢いがありました。スケールが違うのです。

訪問都市はリオ・デ・ジャネイロとサンパウロが主で、そこを起点にウジミナス方面のベル・ホリゾンテ、首都のブラジリア等です。その他に地名は忘れてしまいました。
が何といっても、ブラジルの中心は、大西洋に面した大都市リオ・デ・ジャネイロです。此処は大西洋に面した湾が複雑な形をしており、可なり奥地方面に入り込んでいます。
中世にここを始めて訪れたのはポルトガル軍で、真夏の1月だったそうです。そしてこの湾を大きな河口だと思って、この地名を付けてしまったのです。
即ち、リオ・デ・ジャネイロ とは、スペイン語、ポルトガル語で 「1月の河」 という意味です。

リオの海岸・コパカバーナは、陸地続きの海岸としては見事なもので、恐らく世界最高ではないでしょうか。私はフロリダのマイアミビーチにも行きましたが、前者に軍配を上げますね。
特に凄いのは、毎年2月初旬にコパカバーナで行われるリオの「カーニバル」でしょう。

ブラジルでは3つの S があると言われています。サンバ、サッカー、もう一つはご想像にお任せ致します。

ブラジルは当時から、経済的に不安定で当時の大蔵大臣が決めたクローリング・ペックという政策で、通貨ペソを2か月に1度くらい定期的に値下げしていました。
その為、ハイレベルの人は皆、資産や余った資金をドルで持っており、お金持ちはペソはほんの日常生活に使うだけでした、
私共出張者も慣れてきますと、手持ちのドルをペソに変えずに所持していて、ホテル代を請求されても、中々支払わないのです。やがて通貨は20%近くも下がるのです。下がってから支払うのです。そこでホテル代は20%浮くのですから・・・。

当時から、治安は悪く、特に貧困地域には決して入らぬよう忠告されていました。時折殺人事件も起こるのです。

私自身も何回か被害にあった治安の悪さの実例としては、コパカバーナの海岸では日本と同様に海岸でビニール・シートに座って談笑したり海に入って泳いだりします。或る時、泳いでいて我々のシートに戻ってみると、シャツと半ズボン等がありません。盗まれたのです。少々小銭を盗られたのですが、その半ズボンにはホテル置いてあるカバンのキー入っていました。止む無くホテルに帰ってカバンを町の鍵屋に運んで、何とかキー作って貰いました。

リオに駐在していますと、時折自社の部長さんクラスが日本から出張でやってきます。皆外国語は不得手で、不慣れな人が殆どです。ポルトガル語等出来る訳がありません。その為、リオの空港に出迎えに行き、街まで40分程、車の中でブラジルの治安の悪さや盗人が多いことを具体例を挙げて滾々と説明するのです。
「成程、良く判った。盗られないように気を付けるよ」との返事でした。ホテルに着いてその部長がチェックインの際に、私はロビーで他の人と話しながら待っていました。
チェックインが終わった瞬間でした。その部長が脇に置いたカメラが盗まれて無くなっていたのに気が付いたのです。
本人は勿論お気の毒でしたが、一所懸命40分も説明した私も惨めな気持ちでした。

何年目かにやっと見られたサンバの祭典、リオのカーニバル、サッカー等、この国の賑やかさ、陽気さに就きましては、次の機会に記したいと思います。


(令和2年8月13日)