趣味悠々 852サッカーの昔話


私は、若い頃からスポーツは何でも見ていたのですが、日本のサッカーの試合も時折見ていた記憶があります。
学生時代には、日本の大学サッカー部の選手権が行われていて、優勝チームには天皇杯が授与されていました。或る日寝っ転がってテレビで決勝戦を見ていたら、東京教育大学(今の筑波大学)が優勝しまして、鈴木主将に天皇杯が授与されました。その鈴木君とは中学時代の同級生でしたので、テレビの前で拍手喝さいです。
彼とは最近もこの5月に他の仲間二人と一緒に横浜で昼飯を食って歓談しました。

それから思い起こすのは、前回の1964年の東京オリンピックでは駒沢競技場に行き、日本対ガーナ戦を見ました。この時の日本チームは、大方の予想を裏切ってその前の試合でアルゼンチンに勝ってしまっていました。
この日もアフリカのガーナなら勝てるだろう、と期待して行ったのですが、残念ながら2-3で負けてガッカリしたのを覚えています。

この時は、後に日本リーグ発足して理事や会長を歴任した川渕三郎氏の他に、杉山、八重樫など名フォワードが居てこの2人が得点したのですが、残念ながら勝てませんでした。

その当時、日本のサッカー界は実業団のチームが学生OBを主体に日本リーグを結成して、毎年実業団チームが勝利を競っていて、それなりの試合をしていました。

それから数年後に、私は仕事でアルゼンチンに何回も出張していましたが、日本から遠いのでその出張すると、その都度滞在期間が長くなります。
首都のブエノスアイレスの郊外の街中では幼い子供たちが、皆サッカー・ボールを蹴って遊んでいます。それを見て驚きました。殆どの子供達のボールを扱う技術が非常に上手く神業的で、日本の代表選手よりも遥かに上手に見えました。とにかく、皆名人芸のようでした。これなら、アルゼンチンのサッカーが強いことはよく判りましたが、何故東京オリンピックで日本が勝てたのか、不思議に思った次第です。彼等のとって、何故日本が如きに負けたのか、信じられなかったようです。

ブエノスアイレス市内では毎週日曜日にプロのサッカー・リーグ試合を5,6試合やっていました。それを見に行くと、先ず前座のジュニアーの試合です、これがまた上手いのなんの!驚いていると次の本番と思しき試合が始まり、観衆の声も一段と上がって流石に凄い盛り上がりでした。
さあ、やっと終わった、と思って立ち上がったら、隣のおっちゃんに「何故、帰るんだ!、これからが本番だぞ!!」と言われたのです。実は、それから始まったのが正規レギュラーの本番試合だったのです。
その本番プロ・サッカーの凄いこと!!、今のメッシのようなプレイヤーが何人も居て凄いシュートの連続です。それを阻むディフェンスの上手いこと!、これがサッカーなんだと始めて知りました。

一番人気チ-ムは「ボカジュニアー」と言うチームで、タンゴ発祥の地、カミニートが本拠です。このチーム勝つと、夜中まで大きな旗を持った数百人のファンの大行列が歌を歌いながら、街中を行進します。その熱気たるや、驚くばかりでした。

その頃南米では、アルゼンチン以外に、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、チリ、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ、ペルーなど、どの国もサッカーが滅法強いのです。毎年南米内の選手権は大変な盛り上がりで、各新聞とも1面トップ記事を含めて、ニュースの8割はサッカー記事でした。

暫くすると、日本選手権で優勝した杉山、横山を擁する三菱重工チームがその褒美としてアルゼンチンに遠征してきました。その三菱が現地の人気プロチーム「リバープレート 」と対戦したので、現地の三菱商事の人に誘われて見に行きました。

試合の80%は三菱のゴール前で一方的な「リバープレート」の攻撃でした。結果は3-1で現地チームの勝ちでしたが、あの連続したシュートをファイン・プレイで何回もセイブした、ゴール・キーパーの横山君は翌日の新聞で絶賛されていました。
日本の1点は、全員が日本のゴール前にいた際にセンターライン近くまで蹴り返したボールを俊足の杉山選手が快足を飛ばして、ノーマークとなり、シュートしてゴールを決めたのでした。

話しはブラジルでのサッカー等、まだまだありますが、今回はこの辺りでお開きと致しましょう。


(平成30年7月5日)